「祭りと祈り」あるいは、言語と主体感の精神病理(1/X)

。。


ビタです。
ゴールデンウイーク。。


その間に、表題のようなことを。。何回かに分けて書くつもり。
で、その1回目。。


そんでね。。「妄想」ってのを書いたときのように、
↓これを貼って。。


きわどい、不適切っぽいことを書こうかと。。
そんで、「妄想」ってのを書いたときのように、コメント欄も閉じて。。
とも思ったけど。。


ちな、↓これが「妄想」シリーズ


まあ、コメント欄は開けておいて、そんで。。どうしよ。




。。


自分の娘に性的な虐待をする父親なんて。。


>ふつうにいるよ


みたいなことを書くつもりだから。。
やっぱ、スクロールしないと、読めなくしよう。


以下は、現在体調の悪いかたは、スクロールしないでね☆


































































で。。



自分の娘に性的な虐待をする父親なんて。。


>ふつうにいるよ


今回。。ジェディス・L・ルーマンの『心的外傷と回復』(中井久夫訳)
からの引用で、自分の娘に性的な虐待をする父親なんて。。「ふつうにいるよ」
。。って話。


で、次回。。「青い芝の会」。。



自分のこどもを殺す母親なんて。。


みたいな話。。にするつもり。


やっぱ、閲覧注意ゾーンだな。


そうしました。。で、コメント欄はどうしよ。
まあ、開けたままでいっか。


で、「おまじない」


↓これにするか、カミュの『ペスト』でのリウーのせりふにするか。。(「誠実さ」)

先ほど紹介した介助者の当事者研究をファシリテートするときに、場が
崩れていく場合があるというか、露悪的な語りが増えてしまうことが
あるのですね。たとえば、最初のうちはみんな神聖な雰囲気で話していた
けれど、だんだん「それで、利用者をなぐっちゃったよ、ハハハ」みたいな
ノリが出現する。下手をすると「悪いことした合戦」になっていく場に
直面したときに、これはちょっとまずいなと思いました。それを受けて
みんなで議論したときに使った言葉ですが、「本音と本心を分けて考えよう」
と話したことがあります。辞書的な意味で正確ではありませんが、露悪的
で、それをしゃべることで相手になんらかの影響を与えることを目的と
した言葉の発露を「本音」と呼ぶことにしました。それに対して「本心」は、
発言の効果というよりは聞くことが核になります。これは上岡陽江さん
からの受け売りですが、上岡さんはミーティングのファシリテーションの
技法として、「語りに必要なのは祈り」という表現をします。それで、
「何ですか?『祈り』って」と聞くと、「簡単に言えば、聞くことだね」
と言うのです。



ここで言われる「聞くこと」にはおそらく二つの意味があって、一つは
他人の話を聞くこと、もう一つは自分の気持ちを聞くことです。そして、
自分にもよく聞こえないような自分の声を聞くというような、インプット
のチャンネルを全開に開いた佇まいを「祈り」と呼ぶ。ゆえに、アウト
プットの効果ではなく、インプットに注意を向け続けるような語りを
「本心」と呼び分けることにしました。そしてこの場は「本音」ではなく
「本心」の場にしたい、という軌道修正をしたことがあります。それが、
当事者研究に課せられる責任の一つです。「本心」を語る、というような
ことでしょうか。


雑誌『現代思想』2017年5月号。。「特集 障害者ー思想と実践」
44ページ。「討論「障害者+健常者運動」最前線」における熊谷先生の発言。


。。


「言葉の軽さ」について書くつもりだから。。


成田さん批判。。


>老人は切腹。。


とか。。


ミイラ盗りがミイラにならないように。。


>祭りと祈り


。。一旦送信

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