宝生如来再考
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ビタです。
のんびりしてたら、もうこんな時間。。
↑これを貼って。。
サムネイル画像は、↓これにして。。
で、ディックの『死の迷路』の訳者あとがきにあった、山形浩生の文章
をコピペする。。(1989年のもの。。)
>
1.「ぼくのネコが死んだからぼくは不幸だ」など身近な撒き餌で同情を誘う。
2.「ゆえにぼくは(そしてそれに同情した読者も)世間に見放された落伍者
だ」と自己憐憫を媒介に連帯感を強要。
3.「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」、よって「ぼくらはエライ」と
論理で押え込む。
このプロセスの1.2.はよくあるナンパ師の手口で、ディックの独創ではない。
とはいえ、彼がその手口について天与の才を持っていたことは、あれほど生活力
のない男が短い生涯で女房を四回も取り替えられたという事実が証明するとおり。
この才能の裏付けがあってはじめて、3.が有効に機能できるわけだ。そしてこの
3.にぜひとも注目されたい。
3.は理屈としては正しくはない。「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」と
いうことは一度も証明されず(あたりまえだ)、したがって3.は仮言命題で
しかない。しかしこいつを認めれば「自分はエライ」というシアワセな結論に
浸ることができるため、読者はこれに納得し、ディックはウマウマと逃げおおせ、
長編が一本できあがり、それを訳して小銭を稼ぐ人間も出る。読者の自意識に
図々しくもよりかかり、適当におだてたそのスキに勘定をごまかしながら、
だれもそれをとがめないーーこのキャバクラまがいの見事な手口!だが、これ
こそディックのディックたる所以である。
。。
まあ、私の「宝生如来」もそんな感じ。。でもディックのように、「ナンパ師の
手口」に関して天与の才があるわけでもなく、お勘定に「橘玲」あたりを
ごまかされながら受け取って、PVもそんなに上がんない。。
統合失調症になった私。。そんで、読者も、そんな辛い苦しいことはあるだろう
と、連帯感を強要。。で、そんなわれわれは、「世間に見放された落伍者」?
山形浩生の「訳者あとがき」に戻る。
。。
>
だが書いた本人だけはそうはいかなかった。だって、彼にそう言ってくれる人は
誰もいなかったんだから。他人に言ってもらえなければ自分で言うしかないし、
自分で言うなら自分でわかるような論理の穴を残してはおけない。だからディック
は「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」というのを本気で証明するしかなかった。
もとより無理な注文だ。その無理をおして、見苦しいほどツギハ当てにツギ当てを
くりかえして出来てしまったのが『ヴァリス』であり『聖なる侵入』であり
『ティモシー・アーチャーの転生』である。
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でも、その後。。「落伍者は落伍者であるがゆえに」「世界の真の姿を覚知する
ことができる」。。みたいな。。
>レッド・ピリング
そんな話は、『マトリックス』他、いくらでも出来てたし。。
山形浩生自身が、『死の迷路』の新版の訳者あとがきに2016年に書いたように
>
でも、その後ぼくたちはオウム真理教の暴走を目の当たりにし、変なキリスト教
セクトの集団自殺を経て、アルカイダやイスラム国の拡大を目にする。いまだに
ぼくは、宗教そのものを云々しても意味はないと思っている。でも、それを人々が
信じてしまう、信じたくなる気持ちについては侮るべきではない。ディックの
小説ーーそして、ディック自身ーーの怪しげな宗教への傾倒を、その宗教自体の
妥当性なんか考えても仕方ないながら、それを余儀なくされた条件や、それから
生み出される各種の行動とのつながりは、それなりに考える意味はある。今よりは
若かった自分のあとがきを久々に読み返すと、そうした可能性をまったく考えない
ーーまたは考える必要がないと思っているーー自分の威勢のよい軽薄さが、なか
なかにほほえましく思える。もっとも、それがまちがっているとは必ずしも思え
ないのだけれど。
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って、いまも「政治と宗教」で。。ある宗教団体のことが、大きな話題ですね。
あ、そろそろお昼の12時。。一旦送信