何周だか回って忘れ去られた話

。。


ビタです。
今日も、忙しかった(^_^;)


前回のプロレスの話は、まああれでいっかw
で、今回は、私の中では「プロレス」と類似の場所に保存している話ww


>ルカーチ
。。


『マルクス解体』っていう斎藤幸平さんの本を買いましてね。。
ルカーチについて、けっこう詳しく書いてある。私にしては、懐かしい!
猪木のプロレスを、きゃいきゃい言いながら見てた頃と同じ頃に、ルカーチの
『歴史と階級意識』を読んでましたねww


1980年代wwwww


80年代の半ば、大学生を慶応でしてたのですが、文化系の体育会系(意味不明
かなあ。。「文連」っていう、まじで「学問」をやってる研究会。。)に1つ
入ってまして。。


物理学科だったけど、理系の学問はもちろんまじで大学の正規の授業でやって
もらえてたので。。文系の学問を、ちょい、ゼミみたいな感じでやりたかった。。
それこそ、「ニューアカ」とか流行ってたしww


で、その文化系の体育会系の研究会で、ルカーチの『歴史と階級意識』を抄読会
で読んでて。。私は理系で、物理系で、2年から正式に物理学科になったので、


>物理学帝国主義
>ブルジョア科学


とかって、いろいろ言われましたよ。(半分くらい冗談でww


斎藤さんの本には、118ページと119ページ、見開き2ページに、コンパクト
にまとまってまして。。


>直接性、数量化、単純性、非歴史性


この4つの原則が近代科学にはあるように思える。。「が」
以下、斎藤さんの文章を引用



要するに、近代科学の形式主義は、現実の物質世界の具体性と質的多様性を「把握
しきれない」。自然科学は、宇宙のすべてを説明できる中立的で客観的な科学で
あると自負しているが、実際には、その中立性と客観性は、数値化できない質的な
もの、具体的なもの、歴史的なものを「単なる」偶然的・主観的要因として切り
捨てることによってのみ、可能となる。だが、そうした決断は中立的でも、客観的
でもない。その意味で近代科学の知の中立性は、まさに1つのイデオロギーなので
ある。

このような問題含みの自然科学の方法が支配的になったのは、それがまさに資本
主義的生産に適していたからだと、ルカーチは言う。自然科学の適用は、資本の
価値増殖に有利な形での生産過程の根本的な変革と再編成を行うのに大きく貢献
したのだ。にもかかわらず、自然科学は、不変の「純粋事実」を検討する客観的で
中立的な方法として自らを提示することによって、科学が持つ資本主義的機能を
隠蔽している。自然科学は事実の背後にある資本主義的な社会関係を神秘化し、
すべての人にそれらを所与のものとして受け入れることを強制するのだ。これこそ、
自然科学が「ブルジョア・イデオロギー」たる所以である。


。。


まじ、懐かしい!!!


でも、数周回って。。すっかり忘れ去られてますね(^_^;)


一旦送信しようかな


サムネイル画像は、↓これww

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